KDE 4のリリースは何が問題であったのか?

 本年1月にKDE 4.0が最初にリリースされた当時に感じたのは、これこそが新時代のデスクトップ開発の礎となるべき存在だろうという予感であった。ところがその後、実際にバージョン4.xが各種ディストリビューションにて同梱されるようになると、否定的な見解の方が大勢を占めるようになってしまったのである。この7月末にはバージョン4.1のリリースが予定されているのだが、そこで浮かび上がってくるのが“KDE 4.0はいったい何が不味かったのだろう”という疑問である。

 いずれにせよこれは、KDE本体およびそれを同梱するディストリビューションの関係者だけでなく、程度の差こそ有りはすれ、フリーソフトウェア関連のマスメディアとユーザの全員が何らかの関わりを有す問題のはずである。そしてその背景に潜んでいるのは、フリー/オープンソースソフトウェア(FOSS)コミュニティそのものの在り方が変質しつつあるという事実なのだ。

 まず第一に、KDEに対してユーザが抱く反感ないしKDEに対する認識そのものが、従来の型に当てはまらないものとなっている。KDEにおける過去のリリースはいずれも技術上の大いなる前進を意味していたが、バージョン2.0および3.0とバージョン4.0とでは、各リリースに対する反応が大きく異なっているのだ。例えば今回同様にKDE 2.0もその初期バージョンはパフォーマンス的な問題を抱えており、一部のアプリケーションではアップグレードが遅々として進まなかったものの、当時は辛抱強く改善を待つというユーザが大勢を占めていた。KDE 3.0についても当時はkde-develメーリングリストにてリリースの扱いが適切でないという非難の声が投げかけられてはいたが、ユーザにせよ評論家にせよ概ね好意的に受け止めていたのである。と言うよりもKDEの最新リリースに対する極端なまでに反発的な態度こそが、FOSS系プロジェクトにてこれまで見られなかったタイプの反応なのだ。

 こうした従来のリリースに対するユーザ側の態度を基準とするならば、現在のKDE 4に対する受け止め方は理解不能と言ってもいいだろう。そもそもKDE 4.0というバージョン番号が誤解を招く原因となっているのだが、これは以前から何度も説明されているように開発者向けのリリースなのであって、一般のデスクトップユーザの使用を想定したリリースではないのである。北米地区におけるKDEの広報担当者であるWade Olson氏によると、過去のKDE 4.0に対するメジャーなレビュー記事の大半は、明確な形にてこの事実に言及していたとのことだ。

 ところが本年4月から5月ごろに最初期バージョンのKDE 4.0がディストリビューションに同梱され始めるようになると、これが開発リリースであるというメッセージは影を潜めだし“KDE 4.0は純然たる完成版ソフトウェアのはずだ”という認識での反応をユーザ側が見せるようになったのである。そうした経緯があったことを考え合わせると、例えば自分が入手したKDEのバイナリにて一部の機能やカスタマイズ用オプションが実装されていない点に不審と不満を感じたユーザが存在したのも、ある意味当然と言えるだろう。また新規のメニューやデスクトップマネージャに対する批判的な意見については、どのような変更に対してもリアクションとしての反感を抱く人間は常に存在するものであるが、中には実際に機能的な不満を感じている者もいたはずである。同じく安定性に対する不満も多数寄せられていたが、こうした問題はKDEだけでなく個々のディストリビューション側の責任も問われるべき性質のものだ。その他、ファイルマネージャとしてのDolphinが前面に打ち出されている背景には将来的なKonquerorの廃棄が想定されているのではという見解も聞かされたが、これなどは根拠薄弱な噂レベルの憶測だと見ていいだろう。こうした玉石混合的な反応の中において1つ言える確かな事実は、各種のKDE系のメーリングリストおよびKDE.newsの記事にて否定的な見方が多数を占めるようになり、Groklawの関連スレッドがこの話題で何度も埋め尽くされるような事態にまで発展してしまったということだ。

 この件については、プロないしセミプロの書き下ろしたレビュー記事の中にも、こうした一般ユーザの意見と同調していたものが存在していた。特に極端であったのがLinux Hater’s Blogであり、このブログではKDEというプロジェクトだけでなくそのコア開発者であるAaron Seigo氏個人を執拗に非難していたのである。同じくFOSS分野のベテランジャーナリストであるSteven J. Vaughan-Nichols氏は、KDE 4デスクトップに対する個人的な嫌悪感を吐露した後、現在の開発者はユーザを無視するようになっているとして、同プロジェクトをフォーキング(分岐)する必要性を訴えていた。こうした主張を述べた記事の掲載はユーザ側の共感を呼んでいたが、その一方でこの種の記事自体が更なる反対意見を煽る原因となっていたはずである。

 そしてこのようなKDE 4への反発に対して不快感を露わにしたのは、その作成に3年以上の歳月を投じてきたKDE開発陣であり、彼らにしてみればこれは当然の反応を示したに過ぎなかった。例えば「Road to KDE 4」に執筆した記事にてその名を知られるTroy Unrau氏もそうした1人であり、同氏は自身のブログにて、「KDEを含めたオープンソース系プロジェクトにとってユーザを喜ばせるのは義務ではない。バグを修正することも私たちの義務ではない。要求された機能を実装することも私たちの義務ではない。我々を個人攻撃する場となるオープンフォーラムを提供するのも、私たちの義務ではない」とまで極論している。

 この記事の掲載から1週間後にUnrau氏からは謝罪の言葉が述べられたが、その時点で先の過激な発言は論争を大いに煽る結果となっていたのだ。更にUnrau氏は個人的な諸事情を理由としてKDE関連の活動から手を引いたのだが、同氏の離脱は今回の論争に対するリアクションであると一般には受け取られたのである。Seigo氏が同氏のブログを凍結したのも、同氏自身はKDEの広報担当責任者を1年以上務めたため降板したかったと述べていたが、同様にコード開発に集中するためだと多くの人間は見ている。

開発陣にとって理解不可能な反応

 Seigo氏を含むKDE開発陣が、彼らの抱いた理想が破綻した理由および、そうした状況の将来的な再発を防止する方法をより冷静な視点から語り始めるようになったのは、ここ数週間の出来事である。

 その1人であるSebastian Kügler氏は、今回巻き起こった否定的なリアクションはKDE 4だけに対する反応ではないと見ている。同氏が指摘しているのは、KDE 4のリリース以降にKDEのバージョニングシステムに新規登録した開発者数は166名にも達しており、これは1日1人に近いペースになっていたという点だ。また同氏は、実際には肯定的なリアクションも存在していたにもかかわらず、より扇情的な否定意見にかき消される形で、前者はほとんど注目されなかったのではないかとも語っている。

 それでもKügler氏が言及せざるを得ないのは、このように肯定的な意見を除く一般的なリアクションは、「私にとって非常に不可解なものでした。寄せられた批判の多くは私たちの開発成果と無関係なもののように感じられたからです」という点だ。

 Wade Olson氏は同氏のブログにて、「(KDE側としても)当初想定していた機能や安定性を提供できなかった部分があったかもしれません」という点を認めつつも、「私たちは当初よりの方針に従い、マーケティング的観点から適切と思われる方向で素直に開発を進めていただけなのです」としている。

複数の原因が交錯する“厄介な問題”

 Aaron Seigo氏によると今回KDE 4が遭遇した状況は、経営理論において“厄介な問題”(a wicked problem)とも呼ばれる「特定の原因が存在する訳でないためその解決法を同定できない」ケースに相当するとしている。同氏の見るところこうした反応は、FOSSの世界で一般に見られる複数の傾向を反映したものなのであり、それが今回は特にKDEにて顕在化したのだということになる。

 Seigo氏はまず、バックエンドのテクノロジおよびデスクトップ機能の変化を漏らすことなくフォローし続けるのは、多くのユーザにとって手に余る行為のはずだと前置きしている。そして同氏が投げかけているのは、長年をかけてWindowsとMac OS Xデスクトップと同等の機能を追及してきたKDEは、その目的を達成した次の段階として独自の方向性を模索しだしたのだという見方である。そうした独自の方向というものが革新的な新規性を目指す以上、何があるべき姿かという明確な基準がユーザにとって見えなくなる点が問題となるのだ。

 「私たちが何を目指して何を達成しつつあるかは、外部の人間にとっては認識しにくい事柄のはずです」とSeigo氏は語る。「(KDE 4は)特に広範かつ新規性の高い理想を多数掲げているので、毎日の生活レベルで接している人間でない限り、そうした感覚を保持するのは難しいでしょう」

 同時にSeigo氏はKDEプロジェクト側の問題として、その運営するサイトやメーリングリストでの「意思疎通の努力において最善を尽くしていなかった場面もあった」のではないかとしている。KDEではコミュニティにおけるその種の発言を管理していなかったが、Seigo氏の見るところ、「実際には問題への関心も薄く他人を信頼してもいない連中」というごく限られた一部の人間が議論の全体を牛耳ることを許してしまい、「そうしたマナーを守らずに声だけのでかい不快な少数の人間が全体的な雰囲気を誘導するようになってしまいました。そしてこうした一種の群集心理に流される形で、総体としての意識が形成されていったのです」という事態に陥っていたのだ。そうした状況の中で冷静な意見は雑音中にかき消されていったのである。

 Seigo氏の指摘するもう1つの問題は、KDE側がユーザに誤解を与えたかもしれないという点である。「これは私個人の感想ですが、私たちの持つ開発能力はKDE 3の実現によって証明できたものと無邪気に考えていました。実際KDE 2当時に約束していた目標を追求し、これをKDE 3.5.9にまで熟成させていったのですから。そして今回も、前回と同様の成果を繰り返そうとしていた訳ですが、今度はそうした開発活動をまったく未知の新レベルにて展開しなくてはならなかったのです」

 ところがSeigo氏を含めたKDEコミュニティ側のメンバに欠けていたのは、FOSSが普及した現在、そうした過去の経緯を踏まえていない人間がKDEユーザの多くを占めるようになり、同氏が期待したような古き良き信頼関係には依存できない状況になっていたという現状認識である。

 また同氏は、「ユーザの間に自分達は消費者であるという意識が主流となって、これはユーザも参加するタイプの開発活動であるという認識がなかったのですね」という点も指摘している。つまり、一部のユーザはプロジェクトへの貢献という考えを端から持たず、自分達は要望を聞いてもらう権利を有すカスタマだという意識の下で反応し、不満の意見を聞き届けてもらうには声高に騒ぎ立てるしかないと思い込んでいたのだ。

 今回の問題を複雑化させたその他の要因としてSeigo氏が指摘するのは、KDE 4.0に対する個々のディストリビューションごとの扱い方の違いである。例えばopenSUSEのようにある程度の時間をかけてKDE 4を親和させた上で、これを試験的なオプションの1つとして提示したプロジェクトもありはしたのだが、その他のプロジェクトでは「まともに動作しない状態のパッケージをリリースしているところもありました。今日の状況では、ディストリビューションでの同梱版を完成品として受け取られるケースも多くなっています。ですから、ディストリビューション側での扱いが不味いと、それは私たちの失態だと見なされる訳です」という状態になっていたのだ。

 またKDEプロジェクト側の期待に反して、KDE 4は実験段階の開発バージョンに過ぎない点をユーザに周知させていなかったディストリビューションも存在していたのである。そうしたディストリビューションの多くは、KDE 3の利用するQt 3ツールキットのサポートが7月1日をもって打ち切られるといった、その他多くの要件の方を重要視していたようだ。つまりディストリビューション側の意識としては、サポートの停止されたライブラリに依存したリリースをある程度の期間継続するか、それくらいならいっそKDE 4.xを同梱するべきかという二者択一を迫られていたのである。群雄割拠する今日のディストリビューション群にとって、どこがいち早く最新ソフトウェアを取り込むかは1つの競争となっているため、その多くはKDE 4の同梱に手を出す結果となったのだ。

 そしてこうした決断は、多くのケースにおいて不満を増加させる結果になってしまった。例えばFedoraのメーリングリストでは、KDE 4の完成度に対する辛辣な不満を多数のユーザが延々と愚痴り続けることになり、それと同時に、次のリリースにてKDE 3.5.9パッケージの使用を継続する上でどのような措置が執られるのかを質問するユーザも一部存在するようになったのである。

 Seigo氏によると、FOSS関連のマスメディアも混乱の醸造に一役買っていたようである。否定的なリアクションは派手に騒いでいた分だけジャーナリストの目にも映りやすく、あるいはこの問題に実際以上の注目を浴びせることが正義であるかのように錯覚させたのかもしれない。こうして、責任者の不手際を見つけようとする意識が生まれた結果、否定的な見方にウェイトを掛けるバイアスが形成され、肯定的な意見を無視しつつ批判的見解を一方的に増長させるという悪意の循環が定着したのだ。

 Seigo氏の見るところ、これらのマスメディアはFOSSを擁護するのではなく敵対的立場を取るジャーナリズムへと変質しており、そんなものは「断じて存在すべきではありません」ということになる。FOSS関連のマスメディアの果たすべき役割からすれば「KDEを取り巻いていた偏見を解消することに尽力するべきだったはずなのに、それを怠ったのです」というのがSeigo氏の主張なのだ。

 「結局のところあなた方もこうした機構の歯車の1つとして関与しているはずですよ」と同氏は語る。「正しい内容が報道されているか、公正な記述であるかを見極めるという点で、その責任は特に大きいですね。こうした立場からはもう逃れられないところまで来ていますよ」。とどのつまりKDE 4に関してFOSS関連のマスメディアは、そうした責任を果たせなかったということになる。

 その一方でSeigo氏は、前述したLinux Hater’s Blogなどのサイトに対する辛辣なメディア批判は今のところ手控えているそうだ。「ああした風刺が効いている訳でもなく単なる子供じみたネガティブな意見の羅列に対して、一定の支持が集まったのは悲しむべき事実です。風刺を効かせた批評と単なる暴力的な発言の間には、明確な一線というものが存在します。暴力的な発言を使わなくても、持論を展開することはできますよね」

事態の沈静化に向けたソリューション

 KDEプロジェクトが即座に否定したのは、ユーザ側のとまどいを軽減させる上で、技術的な変化のペースを意図的にスローダウンさせるという選択肢である。確かにこうした方針は何ヶ月にもわたる検討を経た結論なのであり、そうした方針自体の間違いを認めるのも組織としては難しい判断ではあろうが、この場合は選択肢の1つとしての検討そのものがされていないのではなかろうか。

 他のプロジェクト参加者に対するメッセージとしてSeigo氏は、「この一件に過敏に反応して、革新的な開発行為は危険でありプロジェクトの存在を危うくするという風に受け取られるのではないかと危惧しています」と語る。「そうした危険性を考えることは本当に気が滅入りますね。私たちは現在、革新的なアイデアやそれを裏付けるスキルを有した多数の人材を失うか引き留められるかの瀬戸際に置かれているのであり、他のプロジェクトが“クールな開発をしても何も報われないどころか罰せられることになるのか”と考えるようにならないことを心底願っているところです。こうした状況で後ろ向きになるのは禁物です。どうか失敗を恐れることなく、自分の情熱を欺かない方向での活動を継続してください」

 実際、KDEチームが現在重要視しているのは、生じてしまった亀裂を埋めるためのコミュニケーションの確立である。例えばSummer of Codeに参加した学生の1人であるChani Armitage氏は自身のブログにて、「どのようにして開発陣とその他の貢献者達との間でコミュニケーションを確立し続け、過大な負担をかけることなくユーザとの間でオープンな関係を維持していけばいいのでしょう?」という問題を提起している。

 その解答の候補となるのは、KDE側に設けるユーザ擁護委員会であり新規リリースに付属させる用語集とFAQである。その他にも、KDE関連のサイトやメーリングリストにて活動規約を設けるという意見が多数提出されている。

 「活動規約を設けておけば新規の参加メンバに対して、ここでの慣習がどのようなものであり、何が受け入れられて何が受け入れられないかを事前に通知することになります」とSeigo氏は語る。「そのために必要なのは、既存メンバの大多数が常識と考えることおよび、当該コミュニティが何を目指しているのかを文章にて書き起こすことですが、これは誰もが参照できる1つの基準を提示することを意味します。そして何か通常行われていない活動が必要となった場合、それを試みる人物はこの規約に目を通すことで“私がしようとすることは規則に反していないか”という確認をした上で実践に移せるはずです」

 そうした動きの中で現在KDEが最大限の重きを置いているのは、バージョン4.1にて何を実現すればバージョン4.0での不始末を忘却の彼方に追いやることができるかである。Seigo氏は「こうしたものは時間が経てば風化していくものです」とし、「私たちにできるベストの行為は、目に見える成果を実現してみせることです。現状でバージョン4.1に注目しているユーザは、私たちがバージョン4.0にて当初約束していた内容とは異なる成果を期待していることでしょうから」と語っている。

 コミュニケーションをどの程度透明化すれば効果を発揮するのかは、しばらく時間を掛けてみなければハッキリしないだろう。その一方で、新規のリリースをどれほど完成度の高いものとすればコミュニティに広まった波紋を沈静化できるかは、今月末に公開されるバージョン4.1へのアクセス数を見ることで判定できるはずだ。しかしながら多くのKDE開発者を悩ませているであろう最大の問題は、バージョン4.0を契機に蔓延した不信感の存在が、失地回復のチャンスを与えることなく頭からバージョン4.1を否定させることになりはしないかという不安のはずである。

 あるいはこの最後の問題を真剣な眼差しで凝視しているのは、KDE以外のプロジェクト関係者なのかもしれない。こうした問題が発生するようになった背景には、KDEプロジェクトが技術およびPR面でどのような活動をしたか、あるいは何をし損なったかでなく、FOSSというモデル下で活動するプロジェクト、ユーザ、ディストリビューション、マスメディア相互の関わり方が、以前は予想できなかった形にて根底から変化してきたという現象が存在するよう思えてならないからだ。仮にそれが事実であれば、今回同様の騒動は他のプロジェクトでも生じ得る事態のはずであり、特に大規模なプロジェクトであれば、KDE以上にその理由が何であるかを自覚するのは困難となるのではなかろうか。

Bruce Byfieldは、コンピュータジャーナリストとして活躍しており、Linux.comに定期的に寄稿している。

Linux.com 原文